(第7回) フラメンコというコミュニケーション【最終回】  

2016.09.20

ギタリストの柴田亮太郎さん、カンタオールの阿部真さん、バイオリニストの森川拓哉さんらが語る、フラメンコというコミュニケーション。共演者の心を知れば、フラメンコはもっと面白くなる! 他者から学び、そして自分らしさに開眼したとき、私たちはより自由に生きていけるはず。

Flamenco × Life 7 【最終回】

  フラメンコというコミュニケーション 

映画「VENGO ベンゴ」では、コンパスにのって靴音を響かせながら、その靴音でもって周りの人たちとコミュニケーションをとる、アンダルシア地方の「日常にあふれるフラメンコ」が描かれている。普段着のまま路上で踊るその姿は粋で、心弾む風景だ。
そもそも、フラメンコの核といわれるコンパスとは何だろう。
私がその飽くなき探究心を持って、萩原淳子さんのようにフラメンコと向き合い鍛錬すれば、クアドロ(額縁の意。ステージ上の椅子に出演者全員が腰かけ、一人ひとりソロを踊る形式)で踊るレベルまで到達できるのかもしれない。
私の場合はその疑問を携えて取材をし、多くのアルティスタや練習生に話を聞くことで、少しずつフラメンコを理解してきた。
けれど、いまだに私にとってつかみがたい「コンパス」。
そして、このコンパスのうねりをとらえずしてフラメンコの世界には溶け込めない。
恐らく、フラメンコを踊る上で上達する秘けつは三つあると思う。
一、耳が良い
二、音楽的センスがある
三、舞踊における身体的能力が高い
この三つのうちのどれか一つで良いからずば抜けて優れたものがあれば、それほど苦労しなくても楽しく、自然にフラメンコを踊ることができると思う。
あるいは、この三つの能力がバランスよく備わっていれば、である。
萩原さんのクルシージョ「マルティネーテクラス」を受講して実感したのは、自ら一定のリズムを刻み続けることの難しさである。
だが「一定のリズムを刻む」のは、毎日欠かさず練習することで習得できそうである。難しいのは、実際にはそのリズム(コンパス)は膨らんだり、縮んだりしながら回っていくということである。
自分一人で一定のリズムを刻み続けるのも鍛錬がいるが、伴奏者や共演者と共に膨らんだり、縮んだりするリズムを共有するのはもっと修行がいる。そして、大切なのは、そのリズムを心地よく感じながら、となれば……。
フラメンコには数十種類のリズムがあるといわれている。
ソレアに代表される三拍子系と、ファルーカ、タンゴ等の二拍子系に大別されるというが、例えばシギリージャなどは「四分の三+八分の六」の複合形だ等といわれると、もう訳が分からなくなってしまう。
フラメンコに限らず、その土地に伝わる民謡の多くはもともと記譜されて残っている訳ではなく、その独特のリズムや歌が口三味線のようにして弾き継がれ、歌い継がれてきたものを、後世に伝えるために書き記そうと譜面に残されたものだから、リズムが持つうねりやニュアンスを理解しようというのは、根気と時間が要る。
だからこそ、フラメンコは一度手をつけると「一生の趣味」になってしまうのだ。
コンパス、そしてフラメンコとは何かを理解するのに近道はないということを、プロの歌い手やギタリストが教えてくれる。
ギタリストの柴田亮太郎さんは一九七五年生まれ。さまざまな公演の伴奏に引っ張りだこで、その独自のスタイルからきっと確たる自らの音楽的世界を持ち合わせているのだろうと推察していた。だが、取材でお会いした柴田さんが、フラメンコについて語る言葉はとても謙虚だった。
「フラメンコって、いわゆる音楽じゃない。アンダルシアの文化であり、彼らのあり方そのものなんですよ」と話す柴田さんは、二十代後半の三、四年間をスペイン・ヘレスで過ごしている。そこで触れた土着のフラメンコに心底感動したという柴田さんは、だからこそ「理解したい」という強い衝動に駆られた。
「最初は分からないことばかりだから、まず『分かること』をクリアにしていくしかないと思ったんです。具体的に理解できることってたくさんあるでしょう。

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例えば、歌の歌詞を訳してみる。そこで初めてスペイン人との歌詞のとらえ方のギャップを知って、歌詞やリズムのとらえ方について彼らに質問する。そうやって、フラメンコについて何が分からないのか、決定的に違う部分までクリアにしていった」
フラメンコという深く、果てしない広がりを持つ文化の前に圧倒されそうになるが「分かりたい、理解したい」という気持ちが、小さな石を積み上げてゆく。時には、所詮自分は日本人で、スペイン人が内包する、あのコンパス感はどうしたって身につくはずがない、と半ば諦めかけたりもする。
そんなときに、フラメンコギターの世界ではプロとして活躍する柴田さんの言葉は、大きな励ましになる。
「スペイン人のようにならなくていい。勉強して、少しずつ分かっていけばいいんです」
カンタオールの阿部真さんは
「カンテは、自分にとって歌というよりリズム、音楽ではない何か。だから、歌おうと思えた」という。
多くを学び、努力してフラメンコに近付いた人たちでも、ずっとその世界を探し続けている。
フラメンコを学ぶことは、外国語を習得するのによく似ている。文法を学ぶように、コンパスや歌についての決まりごとを覚え、語彙力を増やすように、パソや振付をひたすら繰り返し練習する。
そして、パソや振付を完璧にマスターしても、本番という実践を積み重ねなければ、踊りこなすことは出来ないし、ましてや共演者たちと「音」を通じてのコミュニケーションをとることはできない。
自分一人で踊ろうとするのではなく、周りにいる人たち、ギタリスト、歌い手と呼吸を合わせながら、相手のことをよく見ながら、自分の表現でもって問いかけるのである。
私に、その「舞台上のコミュニケーション」を非常に分かりやすく垣間見せてくれたのが、バイオリニストの森川拓哉さんである。
森川さんはジャズ、フラメンコからブラジル音楽、ラテン音楽など幅広い分野で作曲や演奏活動を行っている。
フラメンコとバイオリンの組み合わせは、初めて聴いた時とても新鮮で、現代フラメンコの流行なのかと思ったが、森川さんによると
「ジプシーの音楽は、インドでもアラブでも東欧でもバイオリンが入っています。スペインに伝わったものは歌が中心になりましたが」ということらしい。
ふつうに決まったヌメロ(曲)を踊るだけでも大変なのに、即興で音を入れ、尚かつその音によってより「フラメンコらしく」磨き上げるなんて、森川さんのバイオリンは私にとって神業でしかない。
それが可能なのは、彼自身が様々な民族音楽と共演し、即興理論を学び、表現の幅を広げてきたからであろう。

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森川さんは四歳の頃から桐朋音大付属の音楽教室にてバイオリンとピアノ、作曲を習い始める。母親はピアノ教師、父親はサラリーマンだったが、バイオリンは自分から「習いたい」といったそうだ。中学三年時には作曲をメーンに手がけるも音楽の道には進まず、私立の進学校を経て早稲田大学社会学部に進学する。
ジャズ・バイオリンは、大学に入ってから個人的に始め、オーケストラ部ではクラシックを奏でた。
森川さんは、人の話を聞くのがうまい「聞き上手」だ。友人の、とりとめのない悩みをうんうんと聞きながら、一人のときは常にレポート用紙にペンを走らせて何かを書き留めている。作曲中のコード表、映画に出てきた美味しそうなメニューなどなど。
「やりたいこと、やらなければいけないことが本当にたくさんあるので、自分の頭の中を整理しておかないと気持ち悪い」
大学四年の時、大手新聞社の内定をもらいながらも
「一番、自分にしかできないことをやろう」と音楽で生きていくことを選ぶ。
「音楽をやってきたことで、他の人とは違う、自分に自信が持てた」と話す森川さんは、ただバイオリニストになるということよりもう一歩踏み込んで「自分のバイオリンだからこそできる可能性」を探し求めた。
当時ジャズやフラメンコの世界でバイオリンをやっている人間が少なかったことや、作曲の勉強を続けていたこと、即興演奏が得意という自分の個性を生かそうと、大学卒業後アメリカ・バークリー音楽院への留学を決意する。
森川さんはアメリカでジャズ理論や即興理論を徹底的に学んできた。そして、これまでに共演してきた民族音楽は実に三十カ国を超える。
「ジャズはモダンでお洒落。東欧の音楽は土くささがある。ラテン音楽は陽気だし、そういった音楽の引き出しをいろいろ開けて、自分の表現の幅を広げてきた」
例えば、新国立劇場バレエ研修所の発表会で小島章司さんが振付したスパニッシュ・ダンスでは
「ファンダンゴの前にクラシックのこの曲を入れたい」といったリクエストに応じ、入交恒子さんの公演では(フラメンコの)タンゴの前に、アルゼンチン・タンゴの曲を作って入れたりするのである。
ある日、都内のタブラオに森川さんが出るというので観に行った。
公演の場合はゆっくり作曲する時間的な余裕があるが、タブラオライブでは通常、本番直前のリハ一回きりでステージに上がる。初めて共演する人もいるから、オーソドックスな構成、曲種をやることが基本である。
今まで様々な民族音楽と共演してきた森川さんだが、その中でも「フラメンコは特別」だという。民族音楽の中では一番好きで、かけている時間もエネルギーもダントツだという。
アレグリアスのような華やかで明るい曲と、ソレアのような心にしみいる曲では音色(おんしょく)を変えるし、踊り手の雰囲気や音の好みに合わせて弦の音を出すよう心がける。
本番が始まると、森川さんの耳はギターとカンテに集中し、視線は踊り手に注がれている。音楽を聴きながら、コンパスをふまえながら、そして「ここだ」というところでバイオリンの弓を震わせる。その、森川さんの研ぎ澄まされた集中力と、思わずはっと息を呑むような美しいバイオリンの旋律が周囲に溶け込み、浮き立つ瞬間が刹那感じられて、客席にいる私も手に汗握ってしまう。
そして弓を構えていても、なかなか踊りに入れないときもある。集中したまま、場が流れる。
フラメンコのステージに、バイオリンの定位置はない。少なくとも、まだ日本では。そして、森川さんの使命はバイオリンを美しく弾くことではなく、共演者の魅力を最大限に膨らますことなのだ。バイレも、カンテも、そしてギターも、艶やかな音色に触発され、いつもとは異なる風景を見、さらに奥深い表現で応えてくれる。
音で問いかけ、相手の中から何かを引き出す。感じたほうも音で応える。
カンタオールの阿部真さんにフラメンコの即興的な要素についてたずねたとき、阿部さんはこういった。
「僕ら日本人は、言葉もコンパスもまだ自由自在に扱えないもの同士が(フラメンコを)やっているわけで、それ以外のもの、テクニックやリズム感をよほど磨いていかないと即興なんてできない。さらに、共演者の人柄をよく知ったうえでね」

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せいぜい半年に一度の共演で、一回リハをやって本番をやるというのは、辛くいえば決め事をするだけのこと。
「本当の即興って、相手のクセとか技術とか感性とかを知り尽くして、リハも何度もやって、それでも尚本番で予想外の展開になったときに何かを創り出していけることをいうんじゃないかな」
叩き上げでカンテを身につけてきた、そして真正面からフラメンコと向き合ってきた阿部さんらしい見方だ。
一方、都内の有名なスペイン・レストランで長い間ステージのブッキングに携わってこられた方は、こんなことをいった。
「毎回仲良しメンバーで構成されているステージでは、同じ観客しか呼べない。だから、できるだけ個性も雰囲気も異なる踊り手を組ませて共演してもらう。そのほうが観客にとっては、エキサイティングなステージになる」
即興に応えるのに、高い技術は必要だ。
そして、地道な練習の積み重ねだけでは、その技術は身につかない。フィエスタ(祭り)のような、その場のノリや空気で場が進行する中で、全身全霊を集中させて答えを見つけ出す中で、フラメンコによるコミュニケーションが身についてくる。
フラメンコを始めてわずか二年でタブラオにレギュラー出演するようになった踊り手の篠田三枝さんは、駆け出しの頃の失敗を振り返る。
「踊りを通してバックのギタリストや歌い手と会話しなければいけないのに、それが通じなかったり会話にならなかったことがたくさんあります。本当に、数え切れないほど」
でもね、と篠田さんは言葉をつないだ。
「月七回も本番があったら、どうしたらいいたいことが相手に伝わるのか、学ぶんです。言葉ではなく、踊りでね。まずバックの会話を聞くことから勉強していこうと思いました」
それまでは自分の踊りのこと、振付や足の運びのことばかり考えていた。妊娠中、バックでパルマ(手拍子)を叩いていた時期があり、その経験も伴奏者の気持ちを理解する上でとても大切だったと話す。
リズムや振付で、相手(共演者)の問いかけに応える。そこに言葉(セリフ)は介在しないが、究極の意思疎通がある。そして、それを可能にするのが
「私はこう踊りたい」
「音楽をこう表現したい」
あるいは
「私はこう生きたい」というアルティスタの強い意志と、高い技術だと思う。

 

フラメンコな生き方

私がスペイン人舞踊家のベニート・ガルシアさんを初めて取材したのは二〇〇六年の春である。
モダンな振付と、高速のサパテアードが奏でるまさに音楽としてのフラメンコは、一瞬のゆるみもなく観ているものの心に揺さぶりをかける。
ベニートさんのステージには、彼独自の音楽観や美意識が凝縮されていて、いつ観ても新鮮な感動がある。
スペイン・アンダルシア地方、コルドバ出身のベニートさんは十五歳でプロデビュー。小松原庸子スペイン舞踊団のスペインでのオーディションなどをきっかけに来日し、同舞踊団の海外公演にも数多く参加、スペインではマリア・パヘス舞踊団に所属していたこともある。
一九九九年より日本に拠点をおき、現在は東京・赤羽に自身のスタジオを構え、数多くの生徒を教えている。
ステージに一切の妥協を許さないベニートさんのレッスンは厳しいが、それでも受講希望者が後を絶たない人気スタジオである。日本語も堪能で、日本の文化や社会を理解しながら
「アンダルシアの文化であるフラメンコを伝えたい」と十年以上、日本という異国で奮闘してきた方である。
一一年三月に東日本大震災と原発事故が起こり、多くの外国人が日本を出国し、日本人でも関西や沖縄に移住すると半ば本気で口にする人が私の周辺でも相次いだ。
そんな中、ベニートさんが変わらず赤羽で活動し続けていると聞き、彼の日本に対する正直な心境が聞きたくてスタジオに伺った。
日本で結婚し、家族を持ったベニートさんは、なぜ日本に留まり続けるのかという私の質問に対し、明快に答えた。
「私の家はここにあるし、家族もいる。私の帰るべき場所は、もはや日本だからね。短期間の仕事や滞在で来ている外国人が自国に戻るのは当然のこと。日本は、私に様々なことを与えてくれた。奥さんと同じ(笑)。良いときも、悪いときも付き合わなきゃいけない」
原発事故に関しては、インターネットを通じて自分が信頼できる情報を入手し、日本の原発の仕組み、チェルノブイリ事故との違いなどについても勉強し、過熱報道するスペインメディアに抗議のメールを送ったりもしたそうである。
日本とともにあろうとするベニートさんの姿勢は揺るがないものだった。私は、日本で成功したらいつかはスペインに帰るのだろうかと漠然と考えていたので、ベニートさんの
「私の帰るべき場所は、もはや日本」という言葉は意外だった。
それは、フラメンコを教えるためにベニートさん自身も日本の文化を理解し、日本社会とつながる努力を惜しまなかった結果なのだろう。
〇六年の取材のとき、ベニートさんは
「スペインの心をそのまま日本語で伝えたいと思っている。それが、私の毎日の戦い。
生徒さんに伝えたいこといっぱいあるのに、まっすぐには伝わらない」と心情を吐露した。
ベニートさんはその後、そうした文化の違いや自分のスタンスをどう貫くかという問題に正面から取り組み、一つの到達点を見出したのが震災後の七月に行われたテアトロ公演「証 AKASHI」に見事に結実していた。
和と西の出会いをテーマの一つに据えた創作フラメンコだったが、十数年かけて日本と向き合ってきたベニートさんが、やっと「日本の心」を受け取ったという象徴的なシーンがあり、それはとても印象的で感動的だった。
「私は踊りを続けるためにどうするか、ということを軸に(人生を)決断してきた。フラメンコがきっかけで日本に来て、いろいろな人と知り合い助けてもらい、ここでフラメンコを教えたいと思って今に至っている。父に、やると決めたら最後まで一つのことをやれ、といわれていたしね。問題が起きても後ろに戻るのではなく、問題を乗り越えて前に進め、と」
かつて経験したことのないような大震災の被害に、多くの人が悲しみに沈み、そして自分の使命や成すべきことと対峙したと思う。
ベニートさんは「証 AKASHI」公演について当時こんなふうにいっている。
「人生の曲がり角の瞬間を一つずつのシーンで創っている。自分の『証』なんだけれど、観ている人にとっても人生の『証』が感じられるような。
今だからこそやらなければと強く思っています。これができるのは、生きているおかげ。悲しいから、あれもしない、これもしない、ゼロ。でも、そうやって何もしないことで、一カ月後、彼らの手助けになりますか? そして、誰かを助けるためには、自分の中に精神的な余力、溢れるものがないとダメ。頑張れるための何か。悲しみだけに目を向けていたら、絶対に力は湧いてこない。何に触れたら自分の心は動くだろうか」
そして、こう続けた。
「被災地の復興には長い時間がかかる。だからこそ、彼らの力になりたいのなら、まず、自分の人生をしっかり、変わらず生きていくことが大切」
「何百人というプロの踊り手がいるよね、フラメンコの世界で。一人ずつ、違う。雰囲気、足の打ち方、手の動き、すべて違う。リズム感が全く無くても、雰囲気がほかの踊り手の三百倍あるとか。
いろんな動き、表現の仕方がある。選ぶのはあなた自身。自分に自信を持って。自信がある人はどんなふうにやってもフラメンコに見えるんだよ」
スペインと日本。
同じように、その二つの国を経験しながらフラメンコと向き合ってきたAMI(鎌田厚子)さんは、二十代の頃、スペイン留学中にこんな体験をした。
「スペインで舞台の仕事をもらったの。でも、私が採用された代わりに、それまでそこで踊っていた十代の踊り手がはじかれた。その子は私の目をまっすぐに見て『私は家族を養っていかなくちゃいけない。その仕事を代わって』っていったの。
私はとてもそこでノーとはいえなかった。もちろん、その仕事は降りたわ」
趣味で始めたフラメンコが、この国の人たちのわずかな仕事を奪う可能性もあるのだと気がついた瞬間だった。
AMIさんは結局十五年間スペインに滞在し、プロの踊り手としての技術や姿勢を磨き上げた。〇四年からはドラマーの堀越彰さんらと銀座博品館劇場で共演し、フラメンコとジャズをクラシックやラテンなどにアレンジする新しい舞台にも挑戦している。
「異分野の人たちとの共演はとても刺激的。フラメンコって、その時自分が持っているネタで勝負しなくてはいけない。でも、新しいジャンルの人達と仕事をするとゼロから何かを作り上げていかなければいけないので、非常に難しいけれど、今まで築いてきたフラメンコのベースを元に、自分だけの自由な発想ができるのでとても面白い。
それに、スペインをお手本にしなくてはいけない世界からも自由になれる」
AMIさんにプロとアマチュアの境を聞いた。
「たとえ技術は六〇%でも、プロとしての意識を持ってステージに立つことで最高の踊り手になっていく。技術的に完璧であることだけが、プロの条件ではないのよ。
自分が出せる最高のもので勝負しているかどうか。人前にさらされて、磨かれていくということが大切なの」

一一年の春、次男がようやく三歳になり入園した幼稚園で母親同士の懇親会があった。
地域の公民館を借りてのそのささやかな会の出席率は実に九割近かった。興味深かったのは「お子さんのことだけでなく、自分自身が今興味を持っているもの、趣味などがありましたらお話しください」と司会役のお母さんが気を利かせて話を振ると、半数以上の人がアロマやヨガ、ジャズダンスなど何らかの「趣味」について積極的に語り始めた。
中には、パートタイムの仕事をしながら資格取得の勉強をしていると生き生きと話す人もいた。
おむつのとれない赤ちゃんをあやしながら参加したお母さんは
「私はまだ下の子に手がかかって、何の趣味もなくて……」と申し訳なさそうに挨拶した。
学生時代、社交ダンスをやっていたけれど今はなかなか踊る機会がありませんと話す方がいた。私も
「フラメンコが好きで、よく観に行きます」と話すと、知り合ってすでに四年の付き合いになるママ友から
「下の子どもの手が離れたら、フラメンコをやりたいとずーっと思っているのよ」と思わず打ち明けられ、フラメンコの根強い人気を感じたりもした。
少子化といわれる世の中だが、私の周辺、東京の北多摩地域では意外にも「一人っ子」家庭は多くない。ほとんどの人が二人、三人の子どもを抱え子育てに日々奮闘している。
そして息子が通う幼稚園では、時間外の預かり保育を行ってくれることもあり、働いているお母さんもたくさんいる。
かつては仕事に生きがい、やりがいを見出せたが、子どもが生まれ、現実には国が旗を振るように「仕事と子育ての両立」は理想どおりにはいかないことを痛感する。子育てをしながら仕事を続けることはできても、そこからこぼれ落ちる何かがある。
大塚友美さんは
「フラメンコは、自分がきちんと生きているということの証し」だといった。
人生の中で出産や育児、介護、病気などがあっても、きちんと生きてさえいれば、フラメンコはついてくる。
フラメンコ舞踊家の箆津弘順さんは自身のスタジオ発表会の挨拶文で、フラメンコ三昧の日々を送る練習生たちについて
「あんた、いったいいくつなの…?」
「こんなことばっかりやってて…他に大事なことがあるでしょうに!」
と家族から苦言を呈されているであろう乙女たちをユーモアあふれる文章で擁護しながら、こう綴っている。
「私は人生その人に必要な事が必要な時に必ず舞い降りてくるのだと信じています。そしてその人生、今この時の積み重ねに他なりません」と。
箆津さんは二十七歳の時に「習い事がてら」軽い気持ちで始めたフラメンコに心を奪われ、勤めていた英国系証券会社を辞め、踊りの世界に飛び込んだ人である。
フラメンコに接していて思う。自分に欠けているもの、足りないものと向き合いながら、前を見て歩いていける人は輝きだす。
新人公演を終えた後、鶴幸子さんはいった。
「フラメンコの場合、欠点ってその人の個性だったりする。だから人に注意されたとき、本当に直すことがいいのか、そのままでいくのか、自分で選ばないといけない。
でも、他人から見たらやっぱり『欠点』だといわれ続ける。それをブレないでやり続け、鑑賞に堪えるものに昇華できるかだと思う。欠点を全て直し続けたら、つまらない踊りになるんじゃないかな」
アンダルシアの乾いた土地に花開いた、フラメンコ。
美しい四季があり、森と山を切り拓いて生き、海に囲まれた湿潤の国、日本。歌の響きが異なれば、それを聴いて舞う踊りもまた違ってくるはず。
フラメンコと出会った私たちが、他者から学び、そして自分らしさに開眼したとき、もっと自由に生きていけるのだろう。
(おわり)