(第6回) 異文化を踊る  

2016.09.20

小林弘子さん、入交恒子さん、大塚友美さんが出逢ってきた、スペイン・フラメンコの風景。偉大なアルティスタ、マエストロとの交流を通して見えてくる、異文化を踊ることの葛藤、尽きない魅力。1980年代~90年代、フラメンコのアルテは、スペインの土地に行ってこそ触れられるものだった。

Flamenco × Life 6

  異文化を踊る

二〇〇九年春、フリーペーパー「ファルーカ」で、プロの踊り手に私的なエピソードを交えながら交流のあったスペイン人アルティスタについて語ってもらうという座談会企画が持ち上がった。
有名なスペイン人アルティスタは数多くいるけれど、どうしたらフラメンコ初心者である読者に古今のアルティスタを印象深く読んでもらえるだろうかと考え、思い付いたのだった。そしてそれは、深く、広大なフラメンコの風景を、個人の記憶によってある一時代、ワンシーンを切り取る作業でもあった。
ポイントは人選である。
座談会なので、ゲスト同士が全く見ず知らずでは会話が弾むまでに時間がかかってしまう。ある程度顔見知りか、共演の経験があるか、あるいは渡西の時期が重なっている、同じマエストロに師事したことがあるなどの共通点があるほうが良い。
まず、結婚、出産を挟みスペインで十五年間暮らし、一九九九年に帰国して現在は台東区にスタジオを構えて教授活動を行っている小林弘子さんに連絡をとった。座談会の趣旨を伝えると、小林さんは快諾してくださった。

小林弘子

座談会でお話しするまで、私は小林さんに直接取材したことはなかったのだが、小林さんに師事しグループレッスンなどで教えるまでになられた方に別の取材を通して知り合い
「育児のブランクを乗り越えてフラメンコに復帰された、心の広い方」と聞いていた。
そして、いろいろな方から評判を耳にしていた大塚友美さん。現在は、都内ではなく出身地の浜松に拠点を移して活動している生き方も興味深かった。
同じく面識はなかったものの、やはりアフィシオナード(愛好家)の方から絶賛されていた入交恒子さんにもお会いしたいと思い、直接連絡をとると、お忙しい方ながら「喜んで」とお返事くださった。
結局のところ、小林さんが大塚さんのパートナーであるギタリストの鈴木尚(たかし)さんに何度か伴奏してもらった縁があることや、セビージャの稽古場で小林さんと入交さんが顔見知りだったこと、入交さんと大塚さんは共演の経験があることが分かった。座談会は、五月に中野のスペインバル・モンキーパッドで行われた。
三人とも、一九八〇年代から九〇年代にかけてスペインと日本を行き来し、現在ベテランとして活躍されている方たちである。
八〇年代後半から九〇年代前半といえば、日本がバブル景気に沸き、過剰な不動産投資が繰り返された時期でもあった。
一方でインターネットは現在のように普及しておらず、グーグルもユーチューブもない時代。フラメンコのビデオやDVDも、今ほど豊富に販売されていない。フラメンコのアルテは、スペインの土地に行ってこそ触れられるものだった。
当日はお昼から横浜にある箆津弘順さんのスタジオを取材する予定もあり、JR中野駅に降り立ったのは座談会開始時刻ギリギリだった。
箆津さんは碇山奈奈さんにフラメンコを師事し、その後渡西してスペイン人アルティスタに学んだほか、バレエも修め、小松原庸子スペイン舞踊団公演や岡田昌巳フラメンコ公演、マリア・パヘス日本公演など数々の劇場公演に客演してきた実力の持ち主である。
箆津さんの理論的で充実したレッスンを取材し、脳内エネルギーをかなり消費した後、小一時間電車に揺られ、中野のモンキーパッドにたどり着く。
一対一の取材ならともかく、私より人生経験も豊富で、名実ともにプロとして長らく活躍されている踊り手の方たちを前に、きちんと司会の役をこなせるだろうか。録音の不具合は発生しないだろうか等、とても緊張してきた。
けれど心配は杞憂だった。
座談会が始まると、というより正確には小林さん、大塚さん、入交さんがお店にいらっしゃった途端、三人はすぐに打ち解けてくださった。
「私、昔、小林さんにファルダを譲っていただいたことがあるんです」
「そうだったわね。セビージャを思い出すとあちこちの街角で恒子さんの記憶が蘇るのよ」
小林弘子さんは一九五七年生まれ。東京・台東区で育つ。共立女子短期大学を卒業後、丸善石油に入社。二十歳でフラメンコを始め、二十四歳の時に初渡西しマドリッドのアモール・デ・ディオスでレッスンを受けている。夏には、アンダルシア各地のフェスティバルを見てまわるなど「ここでしか見られない」熱いフラメンコを体感した。
八六年、二十九歳の時スペインで暮らし始め、翌年スペイン人カンタオールのファン・ホセさんと結婚する。夫は十七歳年上だった。
「優しそうな方でしたよね」と入交さんがいう。
「私はスペインで十五年間暮らしたけれど、長男のアントニオを妊娠してから六年間はまったく踊っていないのよ。家の目の前に、ファン・ホセが所属するスペイン国立バレエ団の稽古場を見ながら。
育児に追われて、その上子どもは二人とも喘息で、全然レッスンの時間はとれなかった。主人も子ども第一の人だったから」
意外だった。
結婚前に「スペインで一緒にフラメンコをやろう」という夫との約束は、どこかに消えていった。小林さんが胸のうちに抱えていた葛藤は、想像するに難くない。
それでも、踊ることへの想いは絶ちがたかった。
「娘のカルメンが幼稚園に行きだしてから、私はカルメラ・グレコに習い始めたの。毎朝五時半に起きてお弁当作って、子ども二人を日本人学校に送って、帰ってきてメルカド(市場)に行って掃除、洗濯、食事の支度をしてスタジオに駆け込むという毎日。午後一時にスタジオに着く頃には疲れはピークだったけれど、レッスンは本当に楽しかった。
レッスンが終わって、子どもを学校に迎えに行って、その後宿題をさせて。もう夜の九時になると疲れて倒れそうだった。
二年間、毎日レッスンに通ったんだけれど、もう来週からは(貯金が尽きて)月謝が払えない、でもカルメラの踊りはすごく好きだから見学させて、と言おうと思ったその日にカルメラが声をかけてくれたの。『お金、どう?大丈夫?』って。事情を話したら『何言っているの、毎日レッスンに来なさい』って。その後も二年間、彼女は無償で教えてくれました」
夫ファン・ホセはジプシーの血を引くフラメンコ・ファミリー。フラメンコはお金を稼ぐためのものであって、お金を払って習うものじゃないという考え方だった。
「ファン・ホセと、カルメラの妹のローラ・グレコは同じバレエ団だったから、彼の収入がどのくらいで、どんな性格で、私がどんな生活しているのか、みんな知っていたのね。私は、本当にカルメラには感謝していて、人間って順風満帆になるとそういう気持ちを忘れてしまうから、日本に帰国した時、私のスタジオに彼女の名前をつけたんです」
スペインでは、フラメンコは生活の中に根付いているものであり、だからこそ、日本よりずっとシビアに、それは生活の手段としてもとらえられている。
そういう温度差について、入交さんはこう話してくれた。
「そうした文化の違いはありますよ。それで、私たち日本人がそういうカルチャーを知らないだけで(若い頃は)勝手に傷ついたりしてね。どっちが悪い、とかじゃなくてね。スペイン人と付き合うとカルチャーショックの連続で、だんだんね、あ、そういうことなんだって、わかるようになってくる。その繰り返しですよね。異なる文化を理解するって」

入交恒子

入交恒子さんは一九六一年生まれ。高知県の出身で、幼少の頃よりモダンバレエを学んできた。
「はじめからフラメンコがやりたかったの、十一の時から」
明治学院大学に入学と同時に上京し、八〇年より小島章司さんに師事。小島さんのもとで代教を務めながら舞台活動に参加し、八六年、二十五歳の時にスペイン政府による奨学生として一年間渡西する機会を得る。
翌八七年帰国し、コンクルソ・デ・アルテ・フラメンコ・東京に出場し奨励賞を受賞。小松原庸子スペイン舞踊団に入団し、九二年に独立するまでスペインでの小松原舞踊団公演に多数参加している。
「私は、小島章司先生のお力添えを頂いて、スペイン政府の奨学生として初めて渡西した時、アモール・デ・ディオスに着いていろんなクラスを見たんですけれど、その時カルメン・コルテスの弟さんがギタリストでいて、知り合ったんです。
マリオ・マヤが来日したとき、カルメン・コルテスも一緒に来ていて、すごい人だって評判は聞いていたんです。きれいだけど、とっても野生的で」
「当時、いなかったですよね、ああいう雰囲気の人」と小林さんがいう。
「そう、その野生的な雰囲気に惹かれて、そういう匂いがしたのは彼女だけだったの。週五日クラスレッスンを受けて、個人レッスンもとって。
日曜日は闘牛に連れて行ってもらったり、スペイン人の習慣とか、考え方とか、一緒に過ごす中で教えてもらった気がしますねぇ。レッスンの中で技術を教わるだけではなくて、ブレリアを学ぶならヘレスに行かなきゃ、とか、後に出会うんですけれど、マヌエラ・カラスコのこういうところを見ておきなさい、とかね」
踊りの技術だけではなく、フラメンコの見方なども教えてくれるカルメン・コルテスは特異な存在だった。
「とても開かれていた人でした。彼女のアドバイスが心に残って、それをやり遂げるのに十数年かかりましたけれど。ヘレスでも素晴らしい先生に出会えたし、そこに行かなければ感じられないものがあって、そこに導いてくれたのがカルメン・コルテスなんです。
十年後(九六年)にまた、彼女のクルシージョに参加するんですが、その時は昼間はレッスン、夜はフィエスタで生徒に必ずブレリアを踊らせる。ギタリストや歌い手を呼んできて。そのクルシージョには五、六年間、毎年通いました。数多くのアルティスタの中に身を置くという貴重な体験をさせてもらいました。
でもねぇ、厳しかったですよ、個人レッスンでは。音の聞き方で、この『一』というところでどの辺に音が入るかって(笑)。コントラ・ティエンポ(ア・ティエンポ【表】に対して反対【裏】に打つリズム)で入れてるつもりが『ちょっとこっち寄ってる!』って、ものすごく厳しくて。最初は、いわれていることが分からないですよ。え?ちゃんとやってるじゃない、って(笑)」
大塚友美さんは一九六三年生まれ。十代後半からロックバンドを組み、音楽の世界からフラメンコに入っていった。
「当時はキーボードを弾いていて、無国籍音楽が流行っていたこともあって、曲作りの素材を探していたんです。でも、フラメンコに出会って、あ、これは身体(踊り)から入ろう。そこから出てきたものが、自分にとっては本物だって思って」

大塚友美

チアダンスやインド舞踊、ジャズダンスの経験もあったので、踊りに対する素養はあった。二十歳でアルテフラメンコの沙羅一栄さんに師事し、三年ほど習う。
一九八八年には単身セビージャに渡り、一年間スペインに滞在している。
「渡西して最初はコンチャに、その後ファルーコに習って、やはり彼との出会いは大きかったですねぇ。とても優しくて、あたたかい人だったんですよ。レッスン自体は結構放任主義。足ひとつ教えたら、後はできるまで放っておかれる、って感じで。彼はずっと横に座ってリズムをとっている。できるところまでやってみな、という感じで。
それで、アドバイスしてくれる言葉が『柳のようにしなるんだ』とか『鳥が大きく羽を広げるようにするんだ』とか。自然への尊敬の気持ちがあって、私はとても共感したんです。
彼の存在そのものが百獣の王みたいな感じで、皆からとても尊敬されていました。ヒターノの中では、ファルーコがいる、ということをものすごく誇りにしているのが切々と伝わってきて。
彼は、誰にも真似できないようなウニコ(唯一つの)な芸を持っていたんですが、その芸は周りにいる家族やヒターノ、みんなのものだったのね。彼が自分のアルテだけに固執したら、ああいう踊りにはならなかったんじゃないかな。
彼は恐らく、稽古場の鏡に一人向かって練習する時間よりも、家族や自分をとりまく社会の中に身をおく時間のほうが多かったんだと思う」
そう語ってくれた大塚さん自身、九五年にギタリストの鈴木さんと結婚し、二〇〇〇年妊娠と同時に故郷の静岡・浜松へと活動拠点を移している。田舎で子どもを育てたい、食を含めて「生活する」ということをもっと大切にしたいと思ったからだ。
この時すでに日本フラメンコ協会第一回新人公演(九一年)で奨励賞を受賞し、都内のタブラオや劇場公演に数多く出演して踊り手としての実績も積み上げていた。ならば尚のこと、東京を離れることに後ろ髪引かれる思いは生じなかったのだろうか。
「フラメンコは、自分がきちんと生きているということの証し。きちんと生きてさえいれば、フラメンコはついてくる」
そしてその言葉通り、大塚さんは浜松という土地や文化を愛しながらフラメンコと共に生き、その姿勢や活動が評価されて〇八年度、「浜松ゆかりの芸術家」に選ばれている。
「スペインでも今、芸がどんどん個室化しているような気がします。稽古場で、鏡の中の自分とまんじりともせず向き合うというのは、芸人だったら通らなければならない道かもしれないけれど。
それは、自分の精神世界を広げることにはなっても、フラメンコの世界は広がらない気がするの。だから、スペイン人の踊りでも、その人個人の世界しか見えてこなかったりすると、あ、そうじゃないものが見たいって思う」と大塚さんはいう。
小林さんもファルーコの存在感を覚えていた。
「ファルーコの生命空間が広い、というのかな。ある物理的な場所にはとどまらない存在感がありましたよね。そして、彼のヒターノとしての使命感。彼が頑張ることで、ヒターノの社会が何かを訴えていく力を得る、というような。彼はもちろん、意識してはいないけれど」
そうした、日本とは異なる世界との接触は、それぞれに大きな投げかけを残した。
「私は、そういうヒターノの世界の踊り手にすごく憧れもして、でも、知れば知るほど遠のいてしまうということもあって、自問自答です」と入交さんはいう。
初めてスペインで一年修業して帰った時、一生懸命踊りのノウハウを身につけて帰ったつもりが、東京でスペイン人と一緒に仕事を始めるとまた全然違う世界が見えてきて、実践の必要性を思い知らされたと入交さんは振り返る。
「その結果、彼らアルティスタ達との交流もふえて、だから余計、そういうふうにギャップを感じるときがあるのかもしれないですね。人によっては『彼女は私達と同じような感じ方をする』といわれることもあって、だいぶ慣れてきたかなぁとは思いますけれど」
入交さんは九二年に独立し、自身の舞踊クラスを開講するようになってからほぼ隔年のペースで劇場公演を行っている。二〇〇六年、〇七年と続けて、草月ホールで行ったコンシエルト・フラメンコ公演では、二年連続して文化庁芸術祭参加公演に選ばれ優秀賞を受賞している。
そうした劇場公演の際、パートナーでもあるギタリストの高橋紀博さんとの共演はもちろんだが、他のメインの共演者がスペイン人アルティスタで占められているのも、入交さんの舞台の見どころである。
ひとまわり年上の高橋さんと結婚した入交さんは、仕事の上でも重要な伴侶である高橋さんについてこう話してくれた。
「毎回公演で、一緒に試行錯誤しながら創りあげていくんですけれど、音楽的な見地から非常に得がたい存在です。
それから、私は地方の仕事に行くことも多いので、そういう時よく分かってくれている人がいるというのはありがたいです。でも、フラメンコのとらえ方について違う部分もあるので、話していく中でその差異を感じることもあるし、最終的には似ていると思うんですけれど、お互いあまり地雷を踏まないようにしているんですよ」と笑った。
そして、二人の間にフラメンコがあるからこそ、強い結びつきが得られたとも語ってくれた。
「入交さんも大塚さんも、ご主人が日本人のギタリストで、一生懸命フラメンコをやっている人と一緒になったのは、とてもいいと思うわ」と真顔でいった小林さんは、九九年日本帰国の前にファン・ホセさんと離婚している。
「スペインでラファエラ・カラスコに習ったときに、そのコンパスのとり方を家で復習していたら、ファン・ホセに『家でフラメンコするな!』っていわれたわ。彼はやっぱりどこかで『外国人にはできない』って思っていた。自分たちの文化だから」
そういう小林さんも、自分がスタジオで教える立場になり、レッスンが終わって家に帰ってきた時、息子のアントニオ君(座談会当時二十歳)がリビングで練習していると
「家でフラメンコやめて」といってしまうこともあるのだと笑う。今では、都内タブラオで親子共演して踊ることもある。
大塚さんは
「年一回の公演の時を除いて、お互い単独行動」だという。
けれどフラメンコ・メンバーを増やすべく、やはり九歳(当時)になる一人息子に少しずつフラメンコを教え始めていると、とても嬉しそうに話してくれた。
大塚さんは
「今、渡西する機会は増えていますけれど、鏡の前で練習したのをそのまま人前に持ってきちゃう。お客さんがいるようで、実はスタジオの延長上になっているのを感じるときがあります。
私たちは鏡を見るところから始まっている、フラメンコを習うということが。でも、スペイン人がいつ鏡を見たかって考えると、それまでに過ごしてきたフラメンコ的な時間があまりに豊かで、長い。ファミリアに囲まれて、人を見ながら踊るということが当たり前で、そこで培われてきたものってすごく大きいと思うの」という。
舞台は、最終的にその人の生き方が出る。そういうものだと入交さんはいう。
「それに気が付くのがいつかなって。クラシックバレエはやはり完成度が求められるでしょう。でも、フラメンコはその人の個性とかね、『違うからいいのよ』というのがあって。今は、これはできて当たり前という、ちょっと技術で競うようなところがありますね」
そして、入交さんは最後に
「不器用ながらも時間をかけてフラメンコを習得していることが、結構気に入っている」といった。
「私たちがフラメンコを始めたときは情報も少なくて、いろんなことを知るのにこう、探っていって、少しずつ、少しずつ時間をかけて分かることがあって。今もその途中ですけれど」
大塚さんも、そんなに急くことはないと話す。
「今って、欲しいものがあるとすぐつながるじゃない? だから、ちょっとでも時間がかかったり、遠回りすると不安になっちゃうのかなぁ。フラメンコも煮込み料理のように、じっくり愛情こめて煮込んであげれば、ご本人の人柄やら、人生やらが溶け出して美味しくなると思うんです。若い方たちが、早く上手にならなきゃいけないって、とても急いでいるように見えて、苦しそうに見えます」
スペインと日本で、波乱の人生を送ってきた小林さんは迷いなくこう言葉を継いだ。
「人と較べない。自分のやっていることを信じて、コツコツ登っていく。不器用で、遠回りをしたからこそ、その振りに他の人では出せない重みや深みが加わるはず」と。
座談会が終わった後、フラメンコの知識も未熟でつたない進行だったにもかかわらず、皆さんは
「とても楽しい時間だったわ。こういう機会を設けてくださって、ありがとう」といってくださった。
それぞれが目指すフラメンコを、それぞれの環境の中で今でも真摯に追い求めている三人が、軽やかな足どりで中野の雑踏に消えていく後ろ姿は美しく、そして羨ましかった。

フラメンコの招聘公演を意欲的に手がけている株式会社イベリアの蒲谷照雄社長は
「僕がフラメンコギターを始めた一九六〇年代に較べたら、今はネットからも様々な音楽が配信されていて、昔よりずっとフラメンコ音楽に接する機会があるはずなんだから、もっとフラメンコ人口が増えていても良いのにねぇ」といった。
スペイン国立バレエ団をはじめヨーロッパの名門オーケストラを招聘していたコンサート・エージェンシー・ムジカが倒産したのは二〇〇七年六月のことである。負債総額は十二億円ともいわれており、九〇年代後半から著名なスペイン人アルティスタの来日公演を数多く手がけていただけに、このニュースは少なからず私にショックを与えた。
〇八年のリーマンショック以降、日本全体を何となく不景気な雲が覆い、一一年に入ると都内のタブラオ二店が閉店した。
本格的に景気が回復せず、客足が遠のいてきたところに三月十一日、未曾有の大震災が東日本を襲った。東北の被災地は甚大な被害を受け、そして東京でも、福島第一原子力発電所が引き起こした事故の影響によって外資系企業が社員を一時引き揚げたり、事業所を関西に移すなどしていたから、その余波もあったのだろう。
クラシック音楽やバレエの集客力に較べれば、フラメンコはまだまだ少数派である。景気の波の中で小さなブームが生まれてはフラメンコを後押しし、その波が引けば観客もぐっと減る。変わらないのは、そのアルテに近付こうと向き合う人々の一途さである。

7につづく